記事に猟奇的、同性愛的、表現が含まれることがあります。

紫水晶の欠片

 そのころは、現王の第一子、なにもなければ時期王になるエルナダ王子が生まれて無事に二年目を迎えたころ、ウルデナ神を祀る神殿に新しい産声が音もなく響いた。清潔な絹に巻かれ、清水で身体を拭かれるはずだったが、産声を上げない新生児を見て、下女や巫女があわてふためく空気の中、取り上げた産婆が冷静に医師とともに赤ん坊の背を叩いて器官の羊水を吐き出させようとしていた。その努力は実り、赤ん坊は弱々しいながらも産声を上げることができた。
 王国の第二子が誕生した。長男のエルナダ王子が無事に王になれば王弟殿下と呼ばれる。そうでなければ、第二継承者候補ゆえに王にもなれる。大体は、城を出て各国の姫の婿となるが、武勇で誉れを立てる軍人として活躍することも出来る。
 だが、この赤ん坊は身体が弱かった。泣かずに眠ったかと思うと、呼吸が止まり、一定の時間になると医師が器具で空気をおくり込まなければいけなかった。母であるハンリエッタ妃は赤ん坊につきっきりで、エルナダ王子は乳母に任せっきりだった。たまに、どうしようもなく愚図るエルナダ王子がひとりで母と弟のいる部屋までくる。母はエルナダ王子を抱き上げ、弟の顔を見せてやるのだった。
「おとうと、おとうと」
 小さな兄は指をさらに小さな弟に向けて言った。
「そうよ、あなたの弟。ふたりともなかよくしてね」
 しばらくして、仮面の者が音もなく部屋に入ってきた。この部屋の誰よりも背の高い人物と、それの半分にも満たない背の人物だ。
「イルゼイ、グリーゼ」
 ハンリエッタ妃が嬉しそうに二人の名前を呼んだ。入ってきたのは人間ではない者達で、仮面をつけた大きなほうはマグス家というひとつの家をまとめる家長のイルゼイ・マグス、小さなほうは一人息子のグリーゼ・マグスだった。グリーゼ・マグスは仮面をつけていないが、将来はかれの父と同じものをつけるようになるのだ。
「御出産おめでとうございます。ハンリエッタ様」
 イルゼイ・マグスは低く、感情のない声でそう告げた。この男はハンリエッタがこの城に入ったときから従者をしている。側付きといっても護衛役や祈祷師のような役目だ。
「ありがとう、あなたの毎日の祈祷のおかげで無事に済んだわ。ほら、この子もこんなに元気よ」
 イルゼイは赤ん坊には大きすぎる寝台を覗き込んだ。母親によく似た金髪の色の白い赤ん坊だった。
「グリーゼ、あなただっこしてみる?」
 ハンリエッタ妃はエルナダを膝から下ろして小さな従者に微笑みかけた。グリーゼはかれの父の仮面の顔を覗き込んだ。
「せがれにはまだ早いかと・・・」
 イルゼイは狼狽したような声で言った。
「大丈夫よ、これからこの子たちはグリーゼ・マグス、あなたの息子にお世話してもらうのよ。さあグリーゼ、寝具に腰掛けて」
 母親は眠ったままの赤ん坊を抱き、素直に寝台に腰掛けるグリーゼの膝に、赤ん坊をのせた。細かく震えるかれの手を包むようにして赤ん坊を抱かせた。
「こうすればうまく抱っこできるわ。どう?」
 グリーゼ・マグスは膝への重みが想像していたものより軽く、驚いた。しかし、手を伝う赤ん坊の重みと暖かみは現実のものそのもので命というものをはっきり意識した。第一子エルナダが新生児のとき、抱かせてもらうことができなかったこともあった。かれはまじまじと赤ん坊の顔をみた。自分の皮膚とは違った白の暖かい色、柔らかい口元が時々もぐもぐとなにか喋っているように動く。
「とてもおかわいらしい赤ちゃんです」
 グリーゼはハンリエッタの顔をぱっと見て言った。
「そうね、そうよね!イルゼイ、あなたも抱いてみる?」
 王妃はグリーゼの顔を見たとたん花の咲くような笑顔を見せ、イルゼイをみた。
「わたしは遠慮しておきます・・・」
 グリーゼは普段威厳のある態度の父をここまで狼狽えさせるのは、ハンリエッタ妃以外にいないと思った。
「このひと、赤ちゃんを抱っこするのがきっと怖いのだわ!」
 彼女に笑いかけられたグリーゼは複雑な気持ちで微笑んだ。
 イルゼイ・マグスが来たのは、王妃のハンリエッタにこの後の予定を伝えるためだった。王妃は部屋にいた医師や乳母を退出させた。少し長い談話中におとなしくしていたエルナダ王子が愚図りはじめた。
「あらあら、エルナダったら。そうだ、グリーゼといっしょに遊んできなさいな」
 父親の傍らでじっとしていたグリーゼにはエルナダの前へ進み出た。ふたりは六つ歳が離れている。だから、少しの時間ふたりだけでいても大丈夫だろうとハンリエッタは判断した。
「エルナダさま、こちらへ」
 グリーゼ・マグスは年下の主君の目線に合わせた。エルナダはにっこりしてグリーゼに抱きついた。このころのエルナダはかなり発育が良くて大人の女性が抱くのも一苦労した。半ばグリーゼに引きずられるようにして抱かれたエルナダは部屋を出た。
 それから、話を切り出したのはハンリエッタのほうだった。
「この子の名前をつけてほしいの。名付けの親になって」
 王妃のハンリエッタは従者であるイルゼイ・マグスに向けて言った。人外の従者はこんどは狼狽えずしかと答えた。
「なりませぬ、王がなんと言われるかお考えください」
 冷たく放たれた言葉はハンリエッタの耳に痛かった。
「王は、あの人は、この子のことは、好きにしろとおっしゃいました。きっと世継ぎの見込みがなかったと判断されたのだわ」王妃は途切れながらもはっきりと言葉を繋いだ。彼女は胸に抱いた赤ん坊をきつく抱きしめた。「この子も、エルナダも、世継ぎや王子である前に、わが子です。だから・・・」
 美しいハンリエッタは菫色の瞳に涙の層を作りながらイルゼイを見た。この従者にどうしてそこまで頼み込むのかはまた別の理もあった。
「わたしは・・・ずっとあなたのこと」
「ハンリエッタ様」
 イルゼイ・マグスはハンリエッタが母親でも王妃でもない娘の時から見守ってきた。はじめて城に入った日、まわりの目に怯える彼女のそばにいたこと、城壁に囲まれた狭い中庭の花畑で共に花をつみ、婚礼の儀のときの花嫁姿に似合う飾りを一緒に選んだこと。すべてが昨日のことのように思い出せるほど色あせない。
 イルゼイは滅多に外さない仮面の紐を解いた。仮面の色と同じ皮膚の端整な顔立ちを表にした。長い指をもつ手のひらで彼女の頬に触れ、乱れた金髪をかき分けて薔薇色の頬を濡らす涙を拭いた。血液の塊のような瞳でハンリエッタの双眼を見つめる。
「それ以上、なりません」
 かれは自分にも言い聞かせるようにつぶやいた。空いた手で抱かれた赤ん坊の頭を撫でた。
「あなたは国の母だ」イルゼイは赤ん坊を愛おしく見つめた。「わたしが名付け親になります。それでいいですね」
 ハンリエッタ妃はかれの言葉に小さくうなづいた。しばらくの沈黙のあと、ふたりだけの部屋にマグス家長イルゼイ・マグスの声が響いた。
「サイルリック」

f:id:Hirtzia:20161231005758p:plainハンリエッタ