記事に猟奇的、同性愛的、表現が含まれることがあります。

 それから十年の月日がたった。イルゼイ・マグスは宮廷を去り、二年前に亡くなったとグリーゼ・マグスから告げられた。かれのことを気に入っていたが、種族間の問題で葬儀に参加する事はできなかった。
 わたしはあの日から髪を伸ばしていた。痛まないようにこまめに切ってはいて、やっと肩まで伸びてきたところだ。すると、毛先が桃色になっていることに気がついた。母も同じ特質があった。ほかの兄弟は髪を伸ばしていなかったので、自分だけが母と同じだった。わたしは毎朝姿見の前で毛先に何度も櫛を通した。
 今日は気分もいいので、頬と唇に薄らと紅をひいて、薄紫色の長衣に真紅の上着を羽織る。ターコイズの腕輪と金の小さな指輪を小指につける。これは母の仕えていた神殿の指輪だ。母の手より大きくなってしまったので、小指につけるしかないが、つけられないよりましだった。
 中庭へ出ると、兄上がマグス家長のグリーゼ・マグスと共にいた。グリーゼ・マグスはかれの父君が亡くなったので、後継者のかれが家長となった。かつてイルゼイ・マグスがつけていた仮面をかれがつけている。もうあの仮面は母とわたしに優しく微笑んでくれるようなことはないだろう。
「サイルリック」兄上がわたしの名を呼んだ。「今日は珍しく外出日和か、体の調子はどうだ?」
 相変わらず能天気な様子でこちらへ向かってくる。ウルデナ神の申し子、金獅子の王子、月輪の眼を持つ男子、などと数々の異名で呼ばれる兄はこの国の王太子だ。エルナダ、という名もこの国を再建したエルナダ一世からとられている。恵まれた容姿、才能などから現王である父や国民からの期待も大きい。そんな兄を持つ弟のわたしは自国の民からも忘れられ、父上と顔を合わせることもほとんど無かった。別に兄の地位が羨ましいわけではなかった。ただ、一つの権利だけは…
「ごきげんよう、御兄様。近頃は体調も良くて」
「その呼び方はやめろ、お前は王子だ。もっとそれらしく振舞え」
 兄上は困ったような表情をこちらに向ける。そんな説教はもう聞き飽きた。
「おや、ノーラにはもう立派な次期王候補がいらっしゃるのにまだ必要なのですか?」わたしは笑みを崩さず「わたしのような日陰者には荷が重すぎると思いませんか?せめて好きなようにはさせてくれませんかね」
 エルナダ王子の表情はじわじわと険しくなっていった。もう少しだ。
「わたしはこれからも御兄様のなさることに異議はありません。ですから、御兄様もわたしのことに干渉なさりませんよう…御身の事を優先なさったほうがよろしいのでは?」
「もういい」かれは手を挙げていらいらした表情でわたしを見つめた。「お前は口だけは達者で困る」
 わたしはそうですか、と返事をして左手でわざとらしく髪をとかした。兄上の目が刹那に見開いたような気がする。左手の小指に光る母上の指輪がかれの月輪の眼に入ったのだろう。
「お前…それは」
「ああ、これは母上の形見の品ですよ。生前に譲ってもらいました」
 もちろん、嘘だ。母の遺品は父がすべて処分したとわたしたちは聞かされた。一部を除いて。それがわたしの手の中にある。兄上にはひとつも母のものは遺されてはいない筈だ。わたしのこの言葉を聞いた兄の顔がみるみると変わる変わる、面白い光景だ。わたしはにやりと心の底から笑いかけた。
「兄上はなにを相続しました?」
 兄は歯を食いしばり、わたしの左腕を掴みあげた。鈍い痛みが襲う、だが、かれの手から震えが同時に伝わってきた。怖いのだ、母上の思い出が。
「エルナダ様」
 兄の背後で石像のように佇んでいたグリーゼ・マグスが音もなく近づき、魔法の力かなにかを使って兄の手をわたしの手首から剥がした。掴まれた痕が熱を持ち、そこだけ生きているかのように脈打っている。兄は無表情だったが、顔からは色が引いている。仮面の従者はかれの主人に静かになにかを囁いて、この場を離れさせた。
「サイルリック様、このお話はエルナダ様の御前でなさらぬように」
 グリーゼ・マグスはそれだけ言うと兄上の背を追おうとした。
「待って…!」
 わたしは声を上げた。グリーゼ・マグスは歩を止めてこちらに向き返った。
「王子方に魔の力を向けたことはお許しください。痣は数分で治るようにしておきました」
 従者は頭を下げると、あっという間に兄上の背後に付いた。
 わたしは誰もいない中庭で静かに悪態をつくと、手首に目をやった。痣になるはずであろうものは消えゆこうとしていた。
 なぜグリーゼ・マグスは兄ばかりに味方する…?やはり王になれぬ者には興味が無いのか、いや、あの男にそんなつもりなどないだろう。兄上がかれの役を解くまでか、兄が天命を終えるまで、かれは側付きとして時間を費やすだろう。その後自然に、わたしの従者になるとは到底思えぬ。
 認めたくないが、わたしは兄に対して嫉妬をしている。ただ、一つのことだけで。
 あれが欲しい、主人に忠誠な、主のためなら命も問わぬような。
 あれの相貌が愛おしい、幼い頃に見たのが最後だが、あの美しい面を忘れられぬ。もう手に入らぬのなら一度だけ、叶うのなら永遠にわたしの目にうつしたい。
 グリーゼ・マグス、かれに抱いてはならない気持ちをわたしは知っている。打ち明けても真剣にはとってくれないだろう。だが、一生、何にもならないまま終わってしまうのが怖い。かれの人生にひとときでもわたしが居たなら、そう考えてしまう。

 わたしは陽が高く上りつめるまえに、中庭を後にした。影の中でみる母上の指輪はとてもくすんでみえ、その下の手首は元の状態に戻っていた。