記事に猟奇的、同性愛的、表現が含まれることがあります。

追憶

 月の冷たい光が差し込む、ドレスタニアの宿の一室。寝具の上には二人の男女が眠っていた。甘い情事のあとの融けるような安らぎの時間だろうか。
 男の方が半身を上げた。肋の浮く華奢な体の透き通るような白い素肌に、いくつもの痣や細かい傷があった。その上に薄く色づいた髪が水流のように垂れている。男はうっとおしそうにその髪をかきあげると、隣で寝息を立てている女をみた。女は胎児のように身を丸くし、眠っていた。縮こまってはいるがその肉体美と巨躯は隠せていない。女の素肌もまた、白かった。
 二人はアルビダの兄妹であった。幼い時からこうして眠っている。とくに、兄の方は背を向けた妹の首筋に顔を埋めて襟足の匂いを嗅いで眠るのが、記憶にない母の子宮の中より安心するのだ。妹のほうは兄と眠ることに違和感はないし、ほかの男ともこうして眠ることが出来るだろう。彼女はどこでもだれとでも自分の眠りにつけるのだから。
 兄、レウカドはそうはいかなかった。夢の中では妹も煙管も金もない。ただ、幼い頃の経験が悪夢となって襲ってくるのだ。物心ついた時からかれには父も母もいない、隣にいる妹のレウコトリカも血は繋がっていなかった。

 幼いかれを選んだのは人間だった。沢山の人間がかれを取り囲んで罵り、嘲る。行動は段々とエスカレートし、冷たい石の地面に組み伏せられ、蹴られ、殴られ、刃物で傷つけられ、それ以上のおぞましいこともされた。幼いかれはなぜ自分がこうされなければならないのかと、自分の頭上よりはるかに高い格子窓の月に助けを求めながら、苦痛の日々を過ごしてきた。
 ある日、かれが疲れて気絶するように眠っていると独特な煙草の匂いがした。いつも嗅ぐ下品な安物の煙草の匂いではなく、どこか懐かしい花のような香りのするが、確かに煙草の匂いがかれの頭を起こさせた。
「子供か、立てるかね」
 鉄格子は開いていた。また殴られるのかと身構えたが、いつもと様子がちがう。
「心配しなくていい、あたしはあんたを傷つけたりはしないよ」声の主はいつもの人間とは違う見た目の小男だった。小男は自分と同じ色の肌をしていた。「かわいい顔したアルビダの子があの窓から見えたもんでね、どんなもんかと見に来たってとこさ」
 幼いかれはこの派手な服装をした男の言葉が理解出来なかったが、かれの窓から見えるのは月だけしかなかった。
「あなたは…月?」
 かれは小男に恐る恐る聞くと、小男はからからと笑い飛ばした。
「あんた、面白いこと言うね。そうさ、あんた願っただろあの月に、助けてくれってさ」
 小男は鉄格子を開けてレウカドに手招きした。かれは躊躇したが、よく見ると足元にいつもの見張りの男がのびていた。
「さあはやく来ないと悪い人たちが起きてきちまうよ」
 かれはその言葉で一歩を踏み出した。自分の足で鉄格子を超えた解放感にかれは震えた。これからどうなるのかは、かれにはわからなかったが、いまよりずっといい方向に向かうと信じて、足を踏み出した。一歩ずつ一歩ずつ、しっかりと踏み込む。むき出しの足に石造りの床がいつもより冷たく感じる。空気はいつものひとの口の中のような生ぬるい感じではなくなって、肌の奥に染みるほど冷ややかで清涼感に溢れていた。一生、自分が出られるはずのない扉の前まで来た。小男が扉を開けてみろとジェスチャーをする。後ろは振り返るな、耳元でそう聞こえた気がした。かれは自分の手でその扉を開けた。